例えば、の話と現実の選択肢

私は、他人と絶対的な一線を引いているタイプの男だ。
そのせいで、客観的に人を見れるが、本気で人を愛するという境地に達したことが無い。
愛情の本質とは、考えるより先に想いが行動に出るものだと思うので、一度もそれが出来なかった私には愛を得る資格は無い。

さて、今の自分には到底無理な仕事だが、昔は営業やバイヤーが私の仕事であり、主たる収入源だった。
当然、数多くの人と接してきたが、どうしても苦手なタイプというものが存在する。
「たとえば〜」「もし、○○だったら〜」等の質問や会話を延々と続けてくる御仁だ。

それだけ迷いや悩みが多い人なのかもしれないが、例え話をしている内に妄想に嵌ってしまうようで、仮定が仮定を生み続け、何も決まらないまま時間だけ無駄になる。
学生時代なら、こんな時間も必要だと思うが、ことビジネスの世界では何の意味も無い。

お互いに最大限の利益を前提にして、会話や商品で綱引きをするのが商売のセオリーだ。
そして、結果が五分ならば、その取引は成功といえる。
欲を出して七分、九分と押し込めば、相手に恨みを残すし、自分も慢心してしまう。
仕事ごとに教訓や学びが無ければ、ビジネスの醍醐味を楽しめないし、慢心すれば必ず大きなミスをする。
私も若い頃には、こんな偉そうなことが言える仕事ぶりでは無かったが、経験を得たからこそ分かる事も多い、とご容赦願いたい。

大なり小なり人生は決断の連続であり、その無数の結果の上に今の自分は位置している。
誰もが全てに正解する分けでは無いけれど、出来るだけ有利な選択をしたいと願っているはずだ。
だが、選択肢の範囲は全員が違う。
一流大学を出ている人、特技を持っている人、顔の美醜や声の良さなど、他人にとって美点となるものを持っているかどうかで、選択の幅は自ずから変わってくる。
それが努力で身に着けたものでも、天性の才能でも構わない。
他人に認められなければ働く事も出来ないし、得られるものも失うはめになる。

結論として、例え話が選択肢の一つに加えられない程度のものなら、考えるだけ無駄、ということになる。
それは可能性ではなく妄想の類だからだ。

私は、一人で病気と付き合いながら生きるという決断をした。
それが選択できたのは、それまでの積み重ねと物質的な蓄えを金銭に変える方法や生活術を知っていたからだ。
無理に働き続けて、老後を僅かに豊かにするより、こういう生き方が出来るのだから、これでいい、と決めることが出来た。
とはいえ、補給の無い持久戦である以上、いつか兵糧が尽きて死ぬかもしれないし、その前に討って出て活路を開くべきかもしれない。
身内もいなければ友もいない孤独な戦いだが、どう転んでも自分一人の問題なのだから結果に納得はできる。

貴方が人を信じる事が出来る内は、私のような選択はしない方がいい。
老婆心ながら、本当にそう思う。