記憶を頼りに・・・

色々と一段落したので、久しぶりに紅茶を楽しみながら、母方の実家を思い返してみた。

電車で終点、バスで終点、舗装されていない道を左手に林を見ながら、更に30分ほど歩く。
山肌に沿ってなだらかな坂道が見えてくる。
その横に細い上り坂があり、『くの字』に折り返すと、大きな柿の木が出迎えて、祖父母の藁葺き屋根の家の前に出る。
左手には、ポットン便所と小さな納屋、その横は牛小屋、そちらに歩くと裏口があり、細い道は更に15分ほど掛かる隣家への道。

玄関の木戸は施錠されることはなく、薄い磨ガラスの入った戸を開け、広い土間に入る。
土間には、ザルやムシロが置いてあり、石段に乗り襖を開けると、囲炉裏があり、高い天井の柱は、炭煙で歴史を刻んだ黒一色。
奥に床の間があり、NHKしか映らないTV、右手のタンスには薬箱。

右に進めば台所があり、その横の土間には『かまど』が2つと風呂炊き窯があった。
土間を抜けると、また台所があり、村の行事で女衆が集うと、ここは賑やかな戦場になる。
トウモロコシ粉で作る饅頭や大きな汁窯、無数の鍋や調理道具が並び、ここには『かまど』は大小4つ。

そこから外に出ると、赤蜂の巣箱が屋根の下にあり、左手は養蚕室への入口で、並びに椎茸の燻蒸機と鶏小屋もある。

囲炉裏部屋に戻って、左に進み、細い廊下を渡って、祖父母の部屋、長男の部屋、そして2間続きの広い仏間に出る。
20枚以上の座布団が積まれ、客が来た時は、ここが宴会場や寝室に提供される。
仏間に沿うように廊下があり、突き当たりは雑多な物で一杯だ。


狭い廊下では、子供の私が両手両足を突っ張って、上まで移動しては飛び降りて遊ぶ。
たまに、家の中にまで『かっぷんたん虫』と呼ばれるオレンジ色の毛虫が入り込んでいて、知らずに踏んでしまい、気持ち悪さで泣く私の声を聞きつけて、祖母が藁板紙で拭ってくれる。

隣の家には、姉弟がいたが、弟は怪我で片目が見えなくて、義眼を入れていた。
薄く開いたまぶたの隙間から、白い異質な物が見えるのが、最初は怖かったが、直に一緒に遊ぶようになった。
大ムカデを退治したり、噛みアリと呼んでいた黒く大きな蟻の群れを追いかけて、巣に小便をして大きな声で笑った。

三件隣は、山の上なので、滅多と行くことは無かったが、訪れれば老婆が菓子やタクワンを与えてくれ、一日中でも昔話を聞かせてくれた。

集落に電話線が一本しかないので、電話の横のハンドルを回していた気がするが、よく分からない。
古いラジオは、「日本が負けた」という放送(玉音放送)が流れたのだぞ、と祖父が笑って教えてくれた。

陽が登ったら起きて遊び、夏でも早い山奥の日暮には、全てが真っ暗闇で、月のない夜は外の便所までの道のりの長さに、意味もなく怯えてしまい、玄関横で済ませることも多かった。

桑畑を走り、とうもろこし畑を抜けて、崖の前から『全てが止まった景色』に出会う。
動くもののない風景で、太陽だけがゆっくりと空を進む。
振り返れば、こんな景色を見守り続けた大きな柿の木と、婆ちゃんが何事かしているのが見えて、不思議と安心した。

出が悪い庭の蛇口、軒下にぶら下がる夕飯の首無し鶏、養蚕室では無数の蚕様が桑を食む音が佐々波のように響いていた。
夜は8時で発電機を止めるので、寝る以外にすることがなく、爺ちゃんはいつも焼酎を空っと飲んで囲炉裏端で寝ていた。

両親の姿が無いことには、余り疑問は持たず、電池切れまで走り回って、何処でも寝た。
用水路の苔だらけの中で、アメンボと泳ぎ、林で昆虫をどっさり取ってきては、婆ちゃんに夜に捨てられ、朝には「逃げた」と騙される。

やがて、向かいの山道を珍しい車が動いているのを見つけ、あれは父だ、と1時間ほど待ち続ける。
そして、何回かの夏が終わり、私は父の車で山を下りた・・・。


長い回想を終えて、私は今では祖父母も亡くなり、あの山奥の家も廃墟になったことを知っている。
地図から消えた故郷は、高い枝葉に囲まれて、あの柿の木だけが在り処を知っているだろう。

無常、何もかも記憶だけを残して、人も場所も移り変わり、そこにあった想い出だけが、胸に微熱を呼び起こす。

乳幼児期に見た世界は、全ての感覚を呼び覚まし、山は何でも教えてくれた気がする。

そして、私は山を忘れ、感情を殺し、流転の生を送ったことを少しだけ後悔する。

私も、また無常なる人なのだが、たまに甦る記憶に遊ぶぐらいは許されてもいい、と想う。