便利さと不便さ

今週のお題「ケータイ・スマホと私」
まだ、ポケベルだった時代から、無線機に縛られる生活をしていた。
そのうち、携帯電話が安くなり、私も持つようにしたのだが、所構わず鳴る上に、こちらの状況を聞きもしないで喋りだす輩に悩まされたものだ。

バイト時代は、それでも便利さが勝っていて、飛び入りのバイトや面接の結果などが早く分かるし、シフトの変更にもすぐに対応出来るので傍から離せなかった。

バイヤーに転向してから、海外とのやり取りにも使えるかと思ったが、その頃は番号や通信方法を変更する必要があり、しかも利益を喰われるぐらい時間当たりの料金が極端に高かった。
仕方がないので、渡米した際は向こうで携帯電話を入手し、日本で契約した物は留守電にして置いて行った。

やがて、海外並みに料金も安くなり、ローミングやメール機能の向上で、ようやくビジネス端末として使えるレベルになった。

私は、長話が苦手なので、携帯でも要件だけを連絡する癖が付いていたので、友人とのやりとりなど実にそっけない物だった。
「今、話す時間はあるかい?」と前置きして、要件を伝えるのだが、受話器の向こうからパチンコ屋の騒音や飲食店の喧騒が聞こえると、場所を変えろ、と眉をしかめることも多かった。
メールは、仕事の要件を伝える手段としては、逃げ口上で「気がつかなかった」等と言われると困るので、時間調整や信頼の置ける相手にのみ使っていた。

こんな私でも、年代ごとに彼女が出来ると、ポケベル・携帯・メールと、暇を見つけては連絡が出来るので、忙しくて中々会えない間の関係確保に役立つアイテムとして活躍していた。

複雑な料金プランやメーカーごとに違う通話圏内に悩まされ、常に複数台の携帯電話を持つ必要がある時代もあった。
ピッチ(PHS)は地下や都市圏に強く、NTTは安定した圏内を持つが、やはり僻地や田舎では役に立たない。
今のように、日本国内なら通話できる時代になるまで、アンテナが立つのと追いかけっこのような買い替えをしていた。

相場を聞いたり、重要な品物の確保に走っている時は、電波やバッテリーが切れるというのが困るので、予備バッテリーを持ち歩いたり、車に強化アンテナを付けるなど、随分と通信には工夫と金が使われた。

今でこそ、家族割や友人割り、同じメーカーなら無料等、様々なサービスを格安で使えるが、昔から使っていた身としては、散々に浪費させられた御蔭で、今の低料金があるんだぞ、と威張ってもいい気さえする。


さて、この病気の治療を始めてから、早めの隠居を決意した時点で、私は携帯電話とサヨウナラすることを決めた。
体調の急変などで、携帯電話があったら便利かもしれないが、滅多に起こらないことのために基本料金を払うのは無駄だし、すでに厭世観が生じていたので、無遠慮に鳴るのが困るからだ。

光通信を導入しているので、電話もひかり電話(IP)で十分だし、海外とのアクセスもメールやメッセで、ストレスや追費用もいらず基本料金内で連絡することが可能だ。
ビジネス用としても、今のメールには署名機能やバックログの記録が出来るので、信頼性も増している。
冷静に考えると、携帯電話が絶対に必要か?と思えば、無くても別に不都合なことは少ない。

子供の安全やビジネスでの活用、高度に発達した操作性は見事だが、携帯機は文字通り携帯してこそ意味があるので、常に携帯電話に縛られ続ける生活は、依存やストレスの元にもなる。
どうしても必要なら仕方が無いが、一度見つめ直すのも意義があることだと思いたい。
『手紙』や『年賀状』『見舞い状』までメールでは、人間関係が何とも味気ないではないか。


クローゼット部屋の何処かに、使い古した携帯機たちが、十何台は眠っている。
それぞれの時、それぞれの用途で、時代を駆け抜けた機械に敬意を払いつつ、私は手ぶらで生きる今を過ごしている。