切られる側

日本は、差別主義を否定し、各市町村でも【人権を守る・差別撤廃】という標語をよく見かける。
個人の人権を守り、不当に自由を妨げてはならない、というのは私も文句はない。

だが、誤魔化しは存在する。

沖縄に基地を押し付けるのは、本土ではないからだろう。

原発放射性廃棄物処理場を過疎地に誘致するのは、事故が起きたときの犠牲を考慮してのことだ。

基地周辺や原発が安全だというのなら、東京や大阪のド真ん中に作っても良いことになる。
特に議員や経営者は、同敷地内に住んで、安全性をアピールすればよい。
下手に御用学者に語らせるより、よほど理解が得られる。

大企業の工場で雇用が増える代わりに、公害汚染で苦しんでも、生活のために黙らなければならない。
不況になって工場が閉鎖されれば、後には失業者と汚染された故郷だけが残る。

過去の身分差別の解消を望みながら、未だに特権や公務員への就業斡旋が行なわれるのは、矛盾であるし逆差別だ。
先祖が差別されたことを口実に利権を要求し続けるのは、差別撤廃への正しい道筋とは思えない。
もちろん、人の出自を理由に、婚姻や就職に不利な判断をしないということが徹底されるのが前提だ。

女性だからと言って、役職の昇進に制限を掛けるのはナンセンスだし、基本的に男性が就ける職業には女性も参加する権利がある。
過度なフェミニズムを行なう男性も、要求する女性も、共に男女同権の意味を履き違えている。
ビジネスにおいてプロであるには、本当の意味で同等の責任と報酬を保証すべきだ。


差別を区別と呼ばなければ、成り立たない面はある。
国益にならないからと言って、未就業者・生活保護受給者・年金受給者・高齢者の医療負担を切り捨てるような政策を採れば、国は持ち直すかもしれないが、社会は怨嗟の声で満ちるだろう。
だからこそ、遠まわしに耳障り良く、社会的弱者・社会不適応者・高齢者が苦しくなる政策を行なおうとしている。

今回の選挙において、各党の政策の先を見据え、差別を区別と呼び変え、国益を誤った形で推進しようとしていないか、を判断するべきだ。
気がついたら、自分が切り捨てられる側だった、と後悔しないように、どうか、お気をつけを。