去る人、会えない人

今日、小品を整理していて、思いがけず懐かしい物を見つけた。

一枚のテレフォンカード。
そこには、夏の海辺で日焼けした友人と、日付が入っている。
これは、若くして亡くなった友人の両親が、弔問に訪れた客に配ったものだ。
元気だった頃の息子を忘れないで欲しい、そんな思いが込められた一枚・・・。

彼の死因は、検死解剖で脳挫傷と複数の打撲であると分かっていたが、どうしてそうなったかは不明なままだった。
ある日の未明、誰も居ないバス停に座り、壊れた自転車と共に発見された、と聞いた。
人間は脳に強い衝撃を受けると、自覚の無いまま少しの間なら移動することがあるという。
自転車のスタンドは立てられていたし、前屈した姿勢で座っていたことから、そこで永遠の眠りに就いたのだろう。

自動車事故なのか、本人の自転車がスポーツタイプだったので高速で転倒したか、それとも何者かに襲われたのか・・・、両親は何年も手がかりを求めてビラを貼っていたが、何も分からなかった。
警察は、現場の状況から事故と判断し、第三者の関与は認められない、と早々に捜査を打ち切っていた。

彼と私は兄弟のような年の差だったので、変に頑固で面白い性格の彼が、家に遊びに来るのを歓迎していた。
転居の関係で、彼と交流が無くなってから、2年後に亡くなったことを知った。

あれから、もう15年の月日が流れていたのか、としばらくテレカを眺めながら偲んでいた。

他人との交流を絶って5年になるが、さよなら、を言って去った友人や妻子は、同じ空の下で生きているのだから、会う可能性はゼロではない。

だが、彼を始めとして、私の周りで世を去った人とは、二度と会うことはない。
病死、事故死、自殺、天災、想えば色んな形での別れを経験してきたものだ。
年齢を重ねるというのは、生き延びた分だけ、生きられなかった人の死を見る羽目になる、というのと同じだ。
私より年下の人間が、可能性に満ちた人が、先に亡くなるのに理不尽さを感じる反面、自分のような男が生き延びていることに苦笑せざるを得ない。
私は運命という言葉が苦手だが、もしも死に何らかの意思が働いているのなら、人の命の存在意義を教えてもらいたい。

人の死で空いた心の空白は、生き別れと違い、2度と埋まることは無いのだから。