無垢なる存在

最近、鬱期が到来したようで、徐々に苦しむ時間が増えてきた。
個人差はあると思うが、私の場合は起きてからの数時間が、最も無気力と混濁に見舞われる。

おかしな話だが、うちの洗面台の鏡には、普段はベールが掛けられている。
鬱の深まる時間帯に鏡を見ると、強い破壊衝動が起こるからだ。
同じ理由で、他の鏡は折りたたみ式の物しかない。

私が暗い面に落ちるとき、自分の映し姿に潜む心の闇に笑われている気がする。
滅多なことでは、嫌い、という言葉を使わない私だが、自分に対してだけは、心の其処から「お前が嫌いだ」と思う。
拭い去れない希死念慮の原因は、全て自分にあるからだ。
苦手、というのは、いつか克服する可能性がある言葉だ。
だから、私は物事や他人に対して、全否定の「嫌い」は使わない。
同様に「死ね」「消えろ」「滅べ」も使わない。
全ての生命や事象には変化があり、それが良い方向に変わる可能性もあるからだ。
罪を罰するのに「死刑」を用いるのも好きな手段ではない。
無限加算制にして、懲役200年がナンセンスだとしても、更正しない限り獄中に留める方が良いと思っている。
死刑を廃止するのなら、同時に量刑を見直すべきだ。
犯罪者を研究するのが私の趣味の一つだが、社会に危険を与えるのなら、その原因を本人が発狂するまで考える時間を与えた方が、より後世のためになる。
税金で罪人を養うのが無駄だと思うなら、強制収容所のように労働や作業でマンパワーを使えばいい。

話が逸れたが、子供らしくなかった自分、他人を受け入れない癖に笑顔が作れた自分、己の為だけに貪欲に知識と経験を求めた自分、世界中の出来事を裁判官のように断じる自分・・・、完全否定の対象は常に自分だ。
他人に対しては、死に値する罪など、そうざらにあるものではない、と想うのに、自分に対しては罰が必要だ、と考えるのはダブルスタンダードかもしれないが、これが私の二面性であり一番やっかいな所でもある。
考え方が「重い」のだ。

前に生き残る事が必要だ、と書いたが、簡単に「自殺」して楽な方に逃げることを、私の中の断罪者は、もう許さない。
失敗したときに、私がぶつかった壁は、何故死ねなかったのか、ではなく、何故生きようとするのか、だった。
確実な方法が無数にあるにも関わらず、中途半端な手段を選んで失敗し、股間を汚した自分を見て、私は一人で笑った。
割れるように痛む頭、きしむ関節、嘔吐、糞小便に汚れたズボン・・・、闇の中を歩いて帰り、シャワーを浴びながら私は狂ったように笑い続けていた。
いや、泣いていたのかもしれない。

こんな馬鹿な話があるか。

体が回復した頃に、私は自分への罰を執行し、そして生きながらにして、自分を育て直すことにした。
産まれたての無垢から始めるのは不可能だが、子供のように無邪気に笑ったり泣いたりできるのなら、そう出来る可能性があるものを探してみよう。
ほんの少しだけでも、自分を好きになれる部分を育てたい。

まだ、見つけていないけれど、本当に私は素直になるのが「苦手」である。