読書

この病を患ってから、どうも本が読めなくなった。
集中力が、無いのである。
映画の鑑賞に関しては、字幕に追いつけなくても、英語圏の作品なら問題ない。
むしろ、滑舌(かつぜつ)の悪い役者ばかりの邦画の方が、私にとってはイライラするし、視聴が苦痛になる。
どうにか観れるレベルの作品など、数年に一本程度、しかもベテラン役者が出ていても、これほどのスパンが空く。
我が国の映画産業が、色んな意味で破綻しているのが、良く分かる。

ところで、民俗学や風習学の本というと、何か難しそうだ、と敬遠されているのではないだろうか?
確かに漫画日本昔話のようには読めないが、ある程度の読解力と時代背景を理解していれば、非常に面白い分野である。

民話や言い伝え、というのは、当時の人達の気持ちを映す鏡のようなもので、史学のように正確である必要がないため、読み物として楽しめるものが多い。
ジャンルも様々で、怖い系から英雄譚やラブストーリーまで、映画と同じぐらいの種類がある。

海外作品でも民間伝承を題材にした物があり、大抵はホラーかサスペンス扱いで撮られている。
SF(空想科学)が1940年代位までに、人間が空想できる範囲のほぼ全てが出揃ったように、国によって形態は異なっても民話の内容というものも出揃った感がある。
例えば、これは斬新なアイデアだ、と閃いたとしても、マニアに聞かせると古典を挙げられてしまう。
時代が変わろうとも、人間が思いつくことなど、大差はないのだという証明にもなる。

そんな民話の中に、「みちびき地蔵」という話がある。
興味のある方は、検索して原文かアニメ化されたまんが日本昔話の該当回を見て欲しい。
背筋が冷えるような津波の教訓を含んだ物語である。

別に、東ヨーロッパに伝わる呪いの儀式を紹介しよう。
夕方の日暮れ時に、木に刺したウサギの心臓を焚き火で焼きながら、「私が焼きたいのは、この心臓じゃない・・・あいつの心臓だ」と歌いながら火を回る、というものだ。

では、この呪いの効果を説明してみよう。
逢魔ケ刻とも言われる顔の判別がしにくい時間帯に、遠くの方で誰かがこの儀式を見たり聞いたりしたとする。
その人は、当然知り合いに話すだろう。
焚き火の跡も残っているし、噂は伝播して、その近隣に広がっていく。
すると、身に覚えのある者は、誰かが自分を呪殺したいほど恨んでいる、と疑心暗鬼の末に体調を壊したり、精神を失調するはめになる。

見事に呪いは成就したわけだが、オカルトでも悪魔の仕業でも何でもない。
多くの場合、呪いの儀式というパフォーマンスは、術者本人の正体が不明であり、何らかの痕跡があること、そして呪詛が行なわれていることをターゲットが知ることで成り立つ。
よく言われる儀式を見られると自分に還ってくる、というのは正体が判明したら、相手から物理的に逆襲されるからだ。

サタニストの方々には、別の見解や技術もあるだろうが、限定された地域での大衆心理を利用した復讐の一つの形が呪いである、と私は思っている。
弱者が行なう復讐の手段としては、非常に効率的だ。

最も、最近のように携帯電話やメールが溢れる時代には、根本的には同じでも、新しい手段が現れていることだろう。


生きている人の数だけ違う人生があるが、どの経験も一つ一つを切り出せば、故人も経験したことであり、占いの類はそれをパターン化した手法であると言っても良い。

どの時代でも、人は悩み、苦しみ、悲しみ、少しの幸福を得ることで微笑んできた。
そんな、無意味にも思える積み重ねが垣間見えるジャンルが、私の捨てきれない業を少しだけ癒してくれる。