我を通す力

兄弟喧嘩から戦争まで、人類の歴史は戦いの歴史である。
己の我を通すために、オモチャを取り合い、領土を争うのだから、本質的に野蛮な種族だと揶揄されても反論の余地が無い。

喧嘩に基本的なルールは存在せず、相手を屈服させるか、殺害するまで終わる事はない。
あるのは、各々が持つ倫理観や罪悪感、そして法的な縛り。
日本でも、決闘が違法とされるまでは、意地を掛けた殺し合いがお互いの同意の下で行なわれていた。

私も、幼い頃に年上に殴られ、泣いて家に帰ったことがある。
たまたま在宅していた父は、私の様子を見て、黙って木刀を手渡して、家に入れてくれなかった。
その時の私の戸惑いと不安感は強烈だった。
父を納得させるには、これで相手を叩きのめすしかないのだろうか、しかし木刀で戦えば相手は大怪我をするかもしれない。
そもそも、私は何で相手に殴られたのか、そんな事を考えながら、相手の家の前に行き、大声で呼び出した。
3つ年上の相手は、トラックの運転手の息子で、普段から乱暴な事で有名だった。
私が手にした木刀を見て一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに素手でこちらに歩いてきた。
お互いに言葉を交わすことなく、木刀を捨て拳を握り締めると、無我夢中で殴り合いをした。
子供の喧嘩である、直に緊張が解けると、体中の痛みに体が動くのを止めた。
相手も、荒い息を吐きながら、その場にドスンと座り込んだ。
「もう、やめんか、しんどいわ」
私は頷くと、手ぶらで家に帰り、玄関前で父親に言うべき言葉を捜していた。
父は、特に何も言わずに玄関を開けて、奥へと消えた。
『許された』という気持ちと体の痛みで、玄関に座り込みながら、『もう、どうでもいいや』と感じていた。
後で、相手の父親が木刀を返しに来て、「これ、使わんと坊主とやりおうたちゅう話じゃけ、ええ喧嘩したもんじゃの」と父親同士で話しているのを階段の影で聞きながら、私は何とも言えない気持ちで一杯だった。
彼とは転居するまで付き合いがあり、ちょこちょこ小突かれたが、そのたびに私も少しやり返して、お互いの意地を確認し合った・・・。

普段から感情を抑えて生きていた少年時代で、私が唯一我を張った想い出である。
その後は、理由が無ければ争わないし、理不尽には抗議する、それで相手が喧嘩を仕掛けてくるなら、最も短時間かつ怪我をさせないで戦闘不能にする方法を考えながら受けていた。
中学も高校も喧嘩はあったが、怪我をしたのは相手だけである。
体の堅い部分で受ければ、用意に指ぐらいは骨折するし、大柄な私のタックルで倒れない相手はいないのだから、拳や蹴りを使うより、押さえ込んだ方が相手も少ないダメージで頭を冷やすことができる。
恨みが残るような圧勝などする気は無かったし、なにより喧嘩を暴力の域にまで上げてしまうと、大騒ぎになり母親が悲しむと思ったからだ。
母子家庭なのだから、母親の負担は少ないに越した事は無い。

母親の元から離れ、一人で生きていく術をたくさんのバイトや仕事で身に付けながら、各地を放浪し、ステイツに行く機会もあった。
その間にも争いはあったし、恫喝される目に遭うことも少なくなかったが、幸いな事に絶対に殺さなければいけない相手と出会わずに済んだ。
これは私のような生き方の人間には実に有難いことであり、殺意を向けたのは自分に対してだけだった事が唯一誇れることだ。

人間は争わずには生きていけない生き物であり、常に利己的な考えに支配されがちである。
戦いの歴史は多くの武器を生み、原爆や水爆という大量殺戮兵器を持つまでになった。
局地的兵器も、戦車や基地だけを破壊する高性能ミサイルや燃料気化爆弾の開発で、戦争に血が通わずに、ハイテクとボタンが多くの生命を奪うスタイルに変貌した。
そこまでして、自分の自国の我を通さなければならない理由があると信じているのなら、人間と言う種の未来には滅亡の道しか残っていない。

他国から平和ボケと嘲笑されようとも、この国には守るための暴力として自衛隊だけが存在する。
専守防衛が軍事的鎖国と呼ばれても、私が愛する日本ぐらいは、受け止める力だけで我を通して欲しい、心からそう願っている。