自由と責任

人がどれだけ自由に生きられるかは、その人の経験と能力に依る、と思う。
そも、自由とは何ぜよ?と問い掛けるとキリが無いので、簡単に自活する能力があるか、ないかという辺りにしておこう。

仕事で収入を得るには、企業や同僚に合わせるという意味で自由に欠ける。
では、起業すれば良いのか、というと全てを運営するには、自分の時間を膨大に消費する必要があるので、余計に自由から離れていく。
生きていくには収入が不可欠だが、時間制に縛られず、且つ効率良く報酬を得るのは、実に難しい。
私も、社会に出てからの数年間は、バイトという賃金労働者であり、興味の湧いた分野なら賃金の多寡に関わらず率先して面接に行った。
我ながら凄い幅と数の仕事を経験したものだ、と苦笑してしまう。

バブル経済が崩壊する寸前だったので、法律ギリギリの仕事もあれば、専門的な知識や学歴を要求されるはずのものまで、かなりドンブリ勘定で人を募集していたのも幸いだった。
与えられた作業を行ないながら、その会社の体系や商品の収益率、得意先や流通ルート等も調べていたのだから、一歩間違えれば産業スパイである。
新聞の折込、企業向けセミナーの相談員、ガードマン、訪問セールス、研究施設等々、現場仕事から事務職まで、手当たり次第に情報と経験を求めて動きまくっていた・・・。

やがて、中古品をステイツで買い集めて送る仕事の影響で、小規模ながら貿易の魅力に憑り付かれて、港湾の仕組みや税率・禁輸品・運賃他を学んだ。
物を生産する、仕入れる、保管する、出荷する、小売する、という部分に流通ルートや何処に何があるのか、何処で誰が欲しがっているのか、という情報を得て分析するのに、それまでのバイト経験が十二分に生かされた。
ちょうどバブルが弾けていたので、日本中で不良在庫が山になっていたのも幸いし、それらを安価で倉庫買いするために、他の収入を前倒しで当て、実際に手元に荷物を置かないで、FAXと取引先の管理をすることで、直送でマージンを稼がせてもらった。
かなりヤバイ職業の人とも出会ったが、徹底した合理主義と相手に借りを作らないことを前提にして、日本ブランドの家電を輸出するルートを得ることも出来た。
日本の内需では見向きもされない二流品でも、アジアの諸国では憧れの日本製品なので、倒産倉庫の叩き買いと船便の費用を差し引いても十二分に利益は出た。

やがて、日本の経済的な混乱が収まると、こういう仕事は大手に圧倒されたので別の仕事を探す。
ホームセンターや100円均一の進出が目覚しくなっていたので、その方面と仕事をしながら、不動産の仕事も勉強した。
全国に不良債権の物件が転がっていたので、地方に物品の買い付けに行くついでに、こうした情報を持ち帰って、それなりにやっていけた。
この頃に、私はマグロ級の仕事を釣り上げたわけだが、今こうして清貧に甘んじていられるのも、一つは不動産の仕事をしたお陰である。

私は余り人や物に執着が無い性格なので、仕事も変えるし、やり方も変える。
基本的に他人と組むのは苦手なので、会社組織には属さず、フリーのバイヤーとして、名刺一つで好き勝手に動き回ってきた。
適当に造った会社も幾つかあるが、社員がいるわけで無し、単に相手に舐められないための肩書き用なので、不要に成れば廃業してきた。

自由だったか?と聞かれれば、束縛された感じはないので、そうかもしれない。
儲けたか?と問われれば、普通に公務員にでもなっていた方が収入のトータルは上だっただろう。
生きるために必要な収入は得てきたし、犯罪も犯してはいない、高級品や資産は持ち合わせていないが、換金すれば損はしない程度の商品は今もクローゼット部屋に積んである。
40歳までの取り分としては悪くない、死なない程度に快適な暮らしは維持できている。

孤独を恐れたことはなかったが、恋愛も結婚も相手次第で重ねてしまった。
これについては、特に息子には謝るべきだと思うし、いつか成長して、一発殴りに来たら喧嘩してやってもいい。
むしろ、息子のためにも、思い切り私に不満と怒りをぶつけて気が晴れるなら、好きなだけ殴らせてやるつもりだ。
もちろん、殺される気も、壊される気もないので、息子が疲れて止まるまで、受け止めてやれるように体だけは壮健でいたい。
と、いうか、いつか会いたいものだ。

人間、40までは勝つ事を、その後は負けない事を念頭に生きろ、という武田徳栄軒信玄の言葉がある。
この年になって、ようやくこの言葉の意味が実感できる。
私は勝ってきたのか、今の生活は負けていないか、と自問自答の日々が続いている。

自由でいるために駆け回った日々は、今の私の生活に責任と苦い記憶を残しながら、残りの人生の意味を問い掛けている。