少年の夢、落日の夢

今週のお題「夢」
子供の頃に、一度は出された「将来の夢」という作文。
私は、世界中を旅したい、と書いた覚えがある。

夢、という一文字には、色んな希望や願望が詰まっている。
職業、家庭、文化、経済、権力、漠然としていながら、それを実現するには常に現実という壁が立ち塞がるものだ。

夢を見る者は計画を立てる、計画を立てる者は実行する、実行する者は学びを得る、学びを得た者は失敗をしない、失敗しない者は夢を実現する、夢を実現した者は・・・新たな夢を持つ。

では、夢を実現できずに挫折した者は、他の夢を見るのだろうか?
すぐに他に切り替えられる程度の目標を「夢」とは言わない。
破れたものは、己を悔いながら、いつまでも叶わなかった「夢」に苦しみ、呪縛から解かれることはない。
夢を叶えるために支払った代価は、努力と時間、人生の大部分を費やしたからこそ、苦しみも悔いも大きい。
失意の余り、自殺してしまう人もいるだろう。

日本の社会には、セカンドチャンスが無い、と言われる。
第一目標から外れた人は、そこから違う道を目指しても、もう手遅れになっている。
何故なら、どんな夢でも子供の頃から努力し、その道の学問や技術を学び、社会で経験を積むのが普通だからだ。
もう一度、学び直したり、経験を積みたいと思っても、そこには先に夢に向かっている人がいて、途中参加では、どうやっても後ろに並ぶしかない。
そして、成功者の椅子には限りがある。
夢に破れるとは、人生に負けることと同意なのが、日本の社会制度なのである。

学生の頃から心身を投げ打って学問や技術を修めた人には、社会に出る時に夢への優先券が渡される。
この第一関門で、かなりの人が脱落する。
次は30〜35歳に、それまでの実績や人生経験を評価され、自分が何処までいけるのかを決められる。
これが、第二関門で、企業ならば就ける役職の限界が分かり、職人や特殊な業種ならば自分の器量で出来る仕事の幅が分かる。
人生において、このタイミングが一番辛い時期であり、評価を挫折と受け止めた人は、一気に力が抜け、退職・転職・自立を選んだり、酷い場合には引き篭ったり、これまた自殺する。
最終的には、定年や体の老化で職を辞するのだが、この最終関門でも、理想的な勇退もあれば、お払い箱のような退職もある。

さて、夢が叶ったと感じる人が、この世にどれ程いることだろう。
そもそも、夢とは何だったのか見失ったまま、仕事と家庭生活に忙殺される人も多い。
そして、こんな人生になるなんて、と呆然とする人もいる。

生活レベルは余り満足度とは比例しない、100万の月収を貰う人には100万の生活があり、20万の人には20万の生活があるからだ。
どちらが幸福を感じているか、は本人にしか分からない。

最初に人が描く夢は、実はほんの入口でしかない。
その入口にすらたどり着けない人も多いのだが、大事なのはその先に何を見つけ、どう夢を膨らませるか、という点だ。
会社に入る人は社長を目指すのか、漫画家や作家はベストセラー作家か、ミュージシャンはカリスマやトップアイドルか、芸術家は1000年の評価か、どの夢にも果てしない理想が広がっている。
何十年という短い時間に、何処まで近づけるのか、その過程こそが本当の夢かもしれない。

結婚が恋愛のゴールであり、そこから始まる共存生活のスタートであるように、夢と思っていたものが、単なる始まりに過ぎないことを知る日が来る。

最初から大きな夢など持たずに、身の丈に合った幸福を喜ぶ方が楽だし、骨身を削るような苦労もしなくて済む。
深い挫折を味わいたくないから、見当違いな努力はしない。
余裕のある範囲で労働し、生活の中で小さな宝物を見つけながら、夢に縛られることなく淡々と生きる道もある。

自由主義は弱肉強食、常に責任が伴う戦場である。
そんな社会に夢を持てる人は、皮肉ではなく本当に素晴らしいと思う。

私の子供の頃の夢は、ステイツとアジアの何か国かで終りを遂げた。
もう、国境を飛び越える元気も、見知らぬ世界を見たいという想いも、パスポートが期限切れしたように、年齢とともに薄れ始めている。
足を止めた放浪者に「夢」が苦笑いしている。