宗教の利点と矛盾

日本でのキリスト教信者の比率は、全人口の0.3%でしかないそうだ。
世界で20億人の信者を持つ中で、日本が特異な国民性を持っているという証左ではないだろうか。

宗教が、直接的には政治に影響を与えない我が国では、信仰の形も宗派も数えきれないほど存在する。
特定の政党が、ある宗教の信者で議席を確保していても、その宗教を保護したり特別扱いは出来ない仕組みになっているからだ。

私は、亡くなった祖母が創価学会の婦人部長だったので、幼年部の集まりやボランティア活動に参加させられていた。
父方との縁が切れてからは、どの宗教にも属したことはない。

だが、信仰は別にして、宗教という考え方には好奇心があったので、色んな宗派の経典や神仏の捉え方を学んでみた。
一神教多神教古神道・神話、サタニズム・邪神崇拝・自然崇拝、人間が信じることで存在する世界は面白い。
民俗学で言えば、モノノ怪付喪神の類も同類項だろう。

信仰をすることによって、信者が得られる最大の利点は、心の安定ではないか、と思う。
人を超えた存在を信じることで、何か巨大な世界の一部になったような気になる点は、選民思想と似たような匂いがする。
宗派によって課せられる義務や行為は違っても、それが自分の精神を高みに至らせる道なのは同じだ。
人間は愚行や罪を犯さずに生きてはいけない存在なので、そういった穢れを清めたり、救ったりしてくれる超越的な何かを信じようとするのも無理はない。

許し、という点ではキリスト教の右に出る宗教は無い。
懺悔を行えば大抵の罪は許されるし、危機に陥れば救いを求める手を振り払ったりはしない、という教義だからだ。
反面、他の宗教を信仰する相手には、邪教徒の烙印を押し、邪教を信じている、と責め立てる。
宗教戦争や十字軍遠征等の歴史が示す通り、神の名の元に流された血の量は如何程であったか。
キリスト宗派で代表的なカトリック教の歴史は、信仰と政治と血の歴史であり、異端審問や魔女狩りを含めれば、現代のカルトなど足元にも及ばない非道ぶりである。

だが、誕生から現代までカトリック教の体質が同じなのか、というと決してそうではない。
時代の変化に対応しながら、信者の維持や獲得をするためには、時に拠り所となる聖書の改編も行い、教皇から発せられる訓令も実に柔軟な対応をしている。
世界中に派遣された宣教師の話術や社交術も実に巧みで、未開の民族から他宗教の地まで、彼らが訪れなかった場所は無いと感じるぐらい意欲的である。
少なくとも、政治に深く拘りすぎた故の血の歴史を拭い取る程度には変化してきた。

そうした歴史や宣教師の報告書も含めて、バチカンには世界中から集められた人間の歴史とも言うべき記録が、秘蔵書庫として収められている。
閲覧には何重ものチェックと許可が必要だが、天地人の全てが文書や絵図として並んでおり、そこから得た教訓や知識が最大宗派を維持する力になっていることは想像に難くない。
古典的でありながら、無尽蔵の資料を保持し、恐るべき柔軟性も併せ持つ宗教であり、その組織力と影響力は計り知れない。

しかし、日本人の精神性には、信賞必罰が根付いており、先祖信仰も合わせて、キリスト教には手強い相手のようだ。
実際、長崎県を除いて、キリスト教全般の信者は微々たるものであり、神道や仏教の方が圧倒的に多い。
国民全体の宗教信者の割合も、海外では何らかの宗教に属しているのが普通だが、日本は無宗教の人も多く、複数の宗教を信仰している者までいる。


私は、神の存在の是非までは、問題にしない。
信じることで心の平穏が得られ、社会生活や日常のリズムが健全になるのなら、むしろ法以外の節度を保っている律儀な人物として信用に値する。
宗教は自分の生活を豊かにするために信仰するものであって、他人に強制したり、異教徒を敵視しなければ、社会的に何ら問題はない。

近年、極端な終末論や疑似科学を教義に据え、刺激的な話題や奇抜な行動で活動する新興宗教カルト教団が存在している。
ほとんどの場合、中心人物を神聖化し、教祖を神や代理人と呼んでいる。
少数派故に大多数の人を悪戯に驚かしたり、デマや狂言を屁理屈で誤魔化しているのを見ると、まるで前世紀の免罪符や「ええじゃないか」のようである。
オカルト・疑似科学預言者の類を全て否定するわけではないが、余りに稚拙で短絡的な内容に、どうやったらコレを信じていられるのか不思議で仕方が無い。
そして、その多くは反社会的で、時に暴走するのは、ステイツの「人民寺院」、中国の「法輪功」、大韓民国の「タミ宣教会」「統一教会」、日本では「オウム真理教」「ライフスペース」等が反社会的カルト教団として分類されている。
特にフランスのカルト対策は世界一で、他国はこの分類を参考にしていることが多い。
創価学会も、信者獲得の強引さや不躾な布教活動が社会問題化し、国会で議題にされた最初の宗教団体であり、フランスではカルト認定されている。
ちなみに、現在は活動規定を改訂し、組織の団結力を強める方向で安定している。

元々、「カルト」は少数の熱心な集団を意味する言葉であったが、上記のように、今では余り良い意味では使われない。
反社会的な内容を含みながらも、一部では高評価を受けるという意味では、カルト映画・カルト歌手などのようにマニア受けの代名詞に使われる場合もある。


はっきり言うと、宗教とは人間が創造した中でも、かなり影響力が強い文化であって、長年の研鑽と造形によって肉付けされ、緻密に編み上げられた本のようなものである。
カトリック大全集からスピンオフした無数のシリーズや日本の神道物語、アジア圏の仏教大全集、英雄物語のような様々な国の神話集、と例えると読み物としては大変に興味深い。
カルト宗教や新興宗教は、云わば大衆雑誌のようなペーパーブックになるだろうか。
大スポや東スポかもしれないが。

超越的な存在を信じるかは別にして、人間の空想力の凄まじさには敬服する。
まぁ、私としては土着の「かなまら信仰」や「道祖神」「八百万神」の方が、ほのぼのとしているのに、ストレートに民衆の希望が願いとして表現されていて好きだ。
やはり、信仰は社会生活に密着していて、法を犯さず、他人に害が無いものが一番だ。


人間が生み出したものが、神聖さよりも、矛盾の方が目立つのは当然のことだ。
そのために神の存在を信じず、無宗教で戒律の束縛を受けずに、それこそ世界中の神様の記念日を楽しんでいる大多数の日本人の方が正解なのかもしれない。
私も、それでいいと思っている。

願うな、すがるな、手を伸ばせ、それで掴めたものが、自分が得られた本当の奇跡なのだから。