死の気配

自暴自棄や自己破滅で、衝動的な自殺をするのは、ある意味で反射行動であって、人生を諦めるタイミングであったと言える。

無論、早まった行動であり、悲しむ人もいるだろうが、行為自体を責めるには遅すぎるため、何かができなかったのだろうか、と残された人が悔やんでも意味はない。

だが、道連れにされるとあっては、納得できるわけがない。
恨みの対象を殺害し、自らの自殺で逃げる、という事件が絶えないのは問題で、そういう対象になっているかもしれない、という恐怖は筆舌に尽くせないだろう。

僅か1年の交際で、執拗に嫌がらせを続け、熟成した逆恨みを爆発させた男に何の擁護もするつもりはないが、数回の自殺未遂を経ての犯行であるという点が気に掛かる。

母親の【死ぬなら一人で】といった言葉が報道されたが、まさにそのとおりで、どうやっても改善できない性格の男なら、他人に害を成す前に死ぬべきだった。
理性的な部分では、粘着質な自分を嫌っていたかもしれないし、自殺という行為で腐った人生を終わらせたいと願ったのなら、確実に終わらせれば良かったのだ。

こう言うとなんだが、世の中には自殺するしかないタイプの人間というものが存在し、また自殺すべき人間もいる。
環境のせいや迫害によって、死ななくても良かった人間が自殺するのは社会の問題だが、自殺に値する問題を抱えた個人が、冷静に判断して生きているわけにはいかない、と決めたのなら、それは最後の権利として尊重したい。

もし、日本に薬物注射による自殺を権利として認め、そのための施設を設置したのなら、想像を超える国民が利用するだろう。
自殺を実行するための障害の一つに、死ぬ時ぐらいは楽に、という思いがあるからだ。
死ぬ権利を認めている国家は僅かだが、それでも安楽死は不知の病や植物人間にしか認められない。
少なくとも健常者の自殺を認める政府はあるまい。

外国では、少しでも楽に自殺をするための団体が存在し、手法や道具を紹介しているが、私はこれも自由だと思うので、特に反社会的な団体とは感じない。

どうして死にたいのか?と問われて、簡単に答えられるぐらいなら、最初から自殺など考えない。
粛々と準備を整え、淡々と決行する。
生きたいという本能を抑え込み、死の先には何もない、と考え、全てを捨てて、自分を終わらせる。
それも、また人生の決断の一つとして、尊重したい。

そして、自分が危険人物であるから、何かをやらかす前に死にたいという人は、誰が邪魔しても実行して欲しい。

自殺を逃げ道にして事件を起こすよりは、遥かに崇高な死に方だと思う。