顔のない相手

貴方が、友人などに他人を語る場合、何を伝えるだろう?
姓名、住所、性別、顔立ち、職業、人柄、などが普通か。

この人柄というのが、中々に伝えにくいもので、強烈な個性があれば良いのだが、取り立てて印象が浮かばない場合、単に「普通」と言ってしまうことがある。
聞いた方は、自分が判断基準にしている「普通」を想像するわけで、実際に出会うと随分と違う、と思われるかもしれない。
百聞は一見に如かず、で紹介してしまえば楽なのだが、そこまでの関係が必要ではない時は、聞いた方はずっと誤解したままということになる。

最近は、顔のない知り合いというものが、増える傾向にある。
ネットやサイトなどのコミュやゲームを通じて文字会話はしていても、実際には一度も会ったことが無い、という存在だ。
文字だけなので、人柄を判断するには、文章の構成や顔文字の使い方で、何歳ぐらいで性別は多分・・・、という具合にイメージを決めて付き合うしかない。
しかし、文章力が有る人物なら、善人になることも、悪ぶることも、性別を偽ることすら可能である。
私も、悪ふざけで、全く違う人間を演じてみたことがあるが、驚いたことに、直接会って伝えたい、と言われ、かなり体裁が悪くなったことがある。
それ以来、女性を演じる悪戯は、ネットでも封印している。

たかが文字、と云えども、繰り返し連絡を取り合えば情も沸くし、会話では伝えにくいことも書けるので、見知らぬ他人でありながら、精神性を共有しているような気分になるようだ。
そう考えると、手紙より手軽で、電話より思いを伝えやすく、興味がなくなれば簡単に切れる関係、と利点が多いことに気づかされる。
現実の友人関係のような煩わしさがない分、気軽に参加できる新手法のコミュニュケーションなのだ。

さて、このコミュニケーションでも、当然だが個性が要求される。
素の自分で参加している場合、それほど波風も立たず、雑談や相談事を受ける程度で、穏やかに時間を浪費できる。
相手が、運悪く論争を好むタイプだった時などは、学校の先生にでもなった気分で、できるだけ涼やかに論旨を説くか、さっさと認めて別の話題に移るのが、私のネットでの社交術である。

古代中国の学者が、その有名を聞きつけられて論争を挑まれた話がある。
学者は、相手の話に相槌を打ちながら、一通り聞き終えると、勉強になりました、と相手を送り出した。
有名な学者を言い負かした、と鼻高々で相手が去ると、弟子たちは憤慨して、学者に何故あんな男の話を黙って聞いていたのですか、と詰め寄った。
「彼は、学問の探求者ではない。浅学な自分の話を相手に認めさせるのが目的なのだから、それを叶えてやれば無駄な時間を使わなくて済む」

この逸話は、少し意地が悪い気もするが、得てして自分の論旨を押し付けようとする相手には、一番の対処法である。
相手は、自分の愚かさに気づかないまま、何の成長もしないだろうし、益々持論に自信を持って、いつか何処かの誰かに論破される日まで、学問が向上することはない。
討論の場を持つ、ということは、お互いにレベルが近く、建設的でなければ意味が無い、ということでもある。


私が、このブログを気に入っているのは、素直に自分が思っていることを、制約無しで書ける点にある。
不思議に思う人もいるかもしれないが、実はこのページを開くまで、何を書こうか決めていた試しがない。
しばし瞑目してから、浮かんだ事柄を書き連ねているだけだ。

その代わりに、最低でも3度は読み直し、文脈や誤字・脱字のチェックは欠かさない。
今夜のような時間だと、程よく眠剤も回ってきているので、たまに文章が迷走していることがあるのだが、後日でも気が付けば出来るだけ校正を行なっている。


現在の私のような環境だと、外との窓口がネットに限定されてしまっている。
語る相手がいない、というのも不幸な話で、このままでは薄れてしまう知識や経験を呼び起こし、ネットに文章として保存する忘備録の役割を与えている。

どんな相手でも対等に会話する自身はあるが、それは社会で生きていくための手段であって、隠居した現在では、取り留めのない思いをネットで語るぐらいが丁度いい。
日常に変化が起こらないのだから、これまでの人生経験の再確認ぐらいしか書く事がないのも理由の一つだ。

それでも、私が孤独なことに変わりは無いのだけれど。