今日は、2回の中途覚醒を経て、6時に起き上がった。
2回とも夢見が悪かったので、これ以上、寝る気になれなかったからである。
頭痛は消えたが、ほんのり体が熱を帯びている。
元々、体温は高い方なので、37度ぐらいなら、余り問題は無い。

外は曇りで、昼過ぎから雨が降ってきた。
私は、昔から雨が好きなので、こういう体調でもあるし、窓辺で雨音を聞きながら、気分を休めることにした。

雨は、水の循環の一形態に過ぎないが、陽の光のように一方的ではなく、半永久的に地球の上を巡っている。
昔、私の中にあった水分かもしれないし、今は逝ってしまった人々の汗や涙だったかもしれない。
軒板から流れる雨水を見ながら、そんなロマンを感じていた。


まだ、人間が科学や工業を学んでいなかった頃の雨は、さぞかし純粋で美しかっただろう、と思う。
今の雨には、人間が愚かにも垂れ流した悪いものが含まれ、そして絶滅するまで汚し続けることだろう。
人類以外の生命にとっては、人間の生存活動によるメリットなど何もなく、デメリットだけを押し付けられている。
食物連鎖の輪から逸脱し、自然界に存在しなかった物質を撒き散らし、貪欲に他の種族を駆逐してきた生命体は、地球の『毒』でしかない。
私も含めて、人間は生きているだけで、迷惑な存在なのだ。

しかし、人類もこの地球から産まれた種には違いないわけで、どのような歴史を刻むにしても、子孫が続く限り、生き抜かなかなければならない。
いつか、地球の首長の座を他の生命体に明け渡す日が来るまで、醜く愚かな生命活動を維持する『生きる』権利はある。
或いは、文明レベルを向上し、生命体として新たな生存手段を獲得する可能性もゼロではない。

この酷く脆弱な有機生命体である私たちは、地球規模、天体規模の僅かな揺らぎで起こる現象にさえ、耐えきることは不可能である。
云わば、弱く短い生を紡ぎ合わせて、紐のように続いてきた人類の歴史は、いつ断ち切られても不思議では無い細さであり、奇跡的な幸運によってのみ、存在を許されている、とも言える。


ふと、迷走していた意識が戻り、額に手をあてると、熱が引いていた。
私の体は熱消毒を終え、どうやら健康なレベルに戻ったようだ。

離れてから一度も会えない息子の写真に目を止め、向こうも雨だろうか、と何となく想った。

そういえば、循環するのは水だけではない。
命も、また、巡り続ける自然の一部だった。

私から伸びた命の糸は、今頃どんな夢を見て、この先どんな世界を生きていくのだろうか・・・。