最先端の脳医学と心の所在

人間は生きている間に、脳の30%程度しか使っておらず、未知の能力が秘められている、という話を信じている人は多い。
私も、つい10年ぐらい前までは、『ナイトヘッド』を読んでいたので、特に疑問もなく信じていた口である。

ところが、最先端の医療機器を用いた研究により、人間の脳は30%どころか、ほぼフル回転で使用されていることが実証された。
脳のどの領域が何を司るのか、という研究は昔からあったが、主に思考や動作を行う際の電気信号(パルス)の流れを読み取ることで、脳医学の分野は、長年の謎に答えが出てしまった。
人によって使わない領域はあるものの、未知の領域も、秘められた能力も、絵空事に過ぎなかったのだ。

古典SFのファンとしては、少し寂しい気もするが、脳の機能は大きさに比例するので、未来人の予想図が巨大な頭に退化した手足、というのも逆に信憑性が出てきた。

理想的な環境で生存した場合、脳の寿命は約150年、他の器官も120〜200年は保たれる。
生命維持に不可欠な組織を代替えする技術は、まだ完全には確立されていないが、クローン臓器や人工義肢でカバーできれば、かなりの長寿も夢ではない。
生命の回数券とも呼ばれるテロメア細胞分裂遺伝子)に限界があるのは事実だが、このテロメアを増殖、或いは誤魔化す研究も日々進行している。

こういった人体のメンテ作業が、恐ろしく高額な費用と徹底した健康管理の上でなら、成り立つ可能性が高くなったということだ。
一般人には夢のような話だが、少しでも長生きを望む億万長者には関心の高い話だろう。


最近、精子卵子の長期保存法として、フリーズドライ加工が成功した。
ステイツでは、もう20年以上前から、人工授精によるデザインベイビー・ジーニアスヒューマン等と呼ばれる高性能な子供を望む人向けの事業が存在する。
優秀な男性から精子を買取り、人工授精を受けて、シングルマザーでも、女性が望む子供を得られるという触れ込みだ。
しかし、同じ男性から出た精子でも、冷凍保存では遺伝子が完全に保存されず、又、どの精子が最も優秀で健康なのかも分からないという問題があった。
髪・眼・肌・体型等の外見的特徴は得られ易いが、脳や細胞レベルでは当たり外れが大きい。
望んでいる女性側の遺伝的影響も大きいので、期待はずれな結果に失望したという話も良く聞いた(子供には失礼な話だが)。

そこで、遺伝子工学と微細(ナノテク)作業技術が参画し、精子の選択と遺伝情報の読み取り(一部領域の改変)を行い、卵子も理想的な物を使い、人工授精してから希望の女性に入れるという手法が誕生した。
ここで、上記の技術が意味を持ち、優れた物を長期間・劣化なしで保存することが可能になった。

生命の倫理観は置いておくとして、希望者の経歴は本来なら守秘事項だが、自分から公開した女性たちもいる。
それによると、こうして産まれた子供たちは、確かに常人に比べて高い知能と身体能力を持っていた。
嘘のような話だが、基本的な学習方法を教えただけで、一人で学問を進め、飛び級で有名大学に合格している子もいた。
しかし、確かに常人とは違うとはいえ、彼ら独自の価値観をも見出し、今は工芸職人や自然保護管理官などの職を選んだという。
インタビューに答えていた15歳の青年は、すでに大人並みの体格と整った顔立ち、高学歴で知的な返事をするものの、心は年相応で、色々と迷い悩んだ末に、家具職人の道を選んだ。
母親は、もっと重要な職業で活躍して欲しかったそうだが、話し合いを続けた結果、今では息子を認め、心から応援していると答えた。
彼は言う、「決められた職務を理解し実行するのは、単純で面白みがない。家具職人には経験と発想が必要で、浮かんだアイデアを形にするには、技術と情熱が必要だ。そして、それは生きている限り続くのさ」、と。

非公開の子供たちが、何処で何を目指しているのかは知りようがないが、どんなに恵まれた才能を与えても、本人の心が感じた生き方を選ぶ自由はある。
そして、それは往々にして、自分たちにとって難しい、挑戦する価値を感じた分野に歩いていくのだろう。


長寿への執念と天才児の人工出産、生と死は神の分野であり、人間が冒涜してはならない、という意見も分かる。
だが、最先端の医療技術は、人類の望む夢への挑戦でもある。
ただ、遺伝子の対立に強弱はあっても、所謂優劣はない。
より強い遺伝子が顕現するのが自然であって、細工を加えた遺伝子が優れて見えても、それが人類の進歩になるとは限らない。
偶発的な出会いが重なり、連綿と続いてきた人類の複雑な系図に手を加えることが、後にどんな結果を生み出すかは予想できないからだ。

また、長寿が必ずしも幸福であるとも言い難い。
生存本能と死なない事は同義ではなく、死もまた自然界での変化の一つに過ぎない。

可能になったからといって、喜んで飛びつくのは、実に危ういことである。

多様性のある子孫だからこそ、全滅を免れることもある。
短い一生だからこそ、皆が違う大切なものを抱えて、死んでいくことができる。


前に私は泣いて死ぬところだったが、今は自然の成り行きに任せて、心の在処を求めながら、死のうと思っている。
それが、いつ、どこで、どんな死であろうと、構わない。
だからこそ、心の平穏と新しい知識を得るために、まだ生きている。