イメージの力

自分を客観的に見るには、自分の中に観察者を作る必要がある。
統合失調症多重人格障害ではなく、いつでも冷徹な意識を持つ部分と言う事だ。

自分の考え方や感じ方と全く別の、機械のように論理的で妥協のない意識が常に監視していると、下手な行動は出来なくなる。
昔から、契約ごとや取引において、相手のミスリードや罠を見抜くために、温和に接しながらも、この意識が私を見張っていた。

日本は印鑑社会なので、実印を押すという場面はもちろんのこと、認印でも契約の束縛からは逃れられない。
印鑑は、出来るだけ複雑な物を使え、というのは亡父の教えだが、どこが上だか下だかわからないような印鑑というのは、押す前に思案する時間が稼げるし、土壇場で気に入らなければ印鑑を間違えた、と逃げることも出来る。
相手にしてみれば、本人が分からないような複雑な文字なのだから、どう間違えたかを説明する必要もいらず、「では、次回に」ということになる。

契約の時というのは、攻め手は早く済ませたいし、受け手は本当に大丈夫か?と若干の躊躇があるものだ。
そんな時に、観察者の目から見て、これは先送りにするべきだ、と言われれば、相手に遠慮することなく実行できる。
義理人情を廃した存在は、シビアで正確なのだから仕方ない。

時に、自分の感情だけで動いた結果、失敗や損をする事があると、頭を打った私を観察者が糾弾してくれる。
多くの選択肢の中で、どうしてそれを選んだのだ、と脳内会話で原因と解決策を議論し、最もシンプルで揺れがない解決法を選び取る習慣が生まれる。

存在しない者と対話をするのは、精神衛生上は宜しくないのだが、これも自分自身の一部であり、幼いころから私を戒めてくれる大切な意識なのである。

物事や周囲を客観的に見るというのは、普段の思考だけでは、どうしても偏ってしまうが、こうした意識を置いている御蔭で、自分観察も可能になる。

この意識を高めるために、学問や経験を与え続けると、普段の私が身に付いていないことを代わりに提案してくれるので、選択の信頼度や行動を決定づける力になってくれる。

人間は、人格によって受け入れ易いものと、受け入れ難いものがあるが、私が苦手なことでも、この意識は簡単に吸収するので、思考が停滞している時でも、常に観察者は冷静だ。

結局は、自分じゃないのか?と思うのも最もだが、幼い頃は周囲の環境から自分を守り、一人で生きる道を選んでからは、指針を示してくれた。

そのため、今でも一人で暮らしていても、何処か深刻な孤独感に陥らずに済むのは、自分を観察している意識を感じることができるからだ。
常にシンプルで、裁判官のように断罪し、怠惰と貧困を許さず、私が苦しんでいる時も、冷徹に見ている。

呼称を与えてやりたいが、この意識は個であることを認めないので、あくまで私の一部として観察することを存在理由にしている。


哲学なんだか、病気なんだか、分からない雑記になってしまったが、心や記憶というのは、普段は気づいていないだけで、膨大な情報を記録している。、
心に描いた場所や世界は、緻密でリアルに広がり、イメージが強ければ、そこを歩き、触れることさえ出来る。
心を無にする瞑想と真逆で、ここに有れ、と思うイメージは、記憶された情報から、臨調感の有る世界を構築することさえ可能だ。

他人と共有できない記憶の中で、今日も私はイメージで遊んでいる。