常識という非常識

不知の病と診断された患者が、医者に言った。
私は、健康に良いと聞いたことは全て実行し、真面目に働いてきました。
気の毒に思った医者が、もしも治ったら、何がしたいですか?と元気づけようとした。
すると、患者は【毎晩のようにパブに繰り出して、酒とタバコを片手に、女の子を口説きたい】

まぁ、人間なんて、そういうものだ。
常に自分がしてこなかったことへの後悔があり、あらゆる人生を模索しては、自分の行き方に迷い続ける。
結局は、その人なりの常識や教育の範疇から大きく逸脱することもなく、死の瞬間にも【まずまず幸せだった】と納得したふりをして眠りに就く。

私は、自分が納得できることが常識であり、自分がやりたいことが大切だ、と思い込んでいる。
世界というほど旅をしていないが、多分にステイツの影響を受けているし、ドイツや東南アジアの文化にも好ましい面を感じている。
日本に住んでいる以上、この国の気候風土に合った生活も愛しているし、逆に日本でありながら無様な生活習慣をしているのを見ると、勿体ないことをと思う。

政治を抜きにして、人間はそれぞれの土地柄に合った生活を見出し、それを守ることで根付いてきた。
我が国のような島国であっても、様々な風習や文化・言語が存在するように、これが世界規模となると、面白いぐらい多様な社会が生まれている。

曰く、人生の常識などというものは、単なる習慣であり、価値観を同じくしない者同士では成立しない、ということだ。


アルジェリア武装組織が起こしたテロ籠城事件も、先進国の常識ではなく、内乱やテロと戦ってきたアルジェリアの常識が適用された形だ。
テロ組織と交渉しないということは、最小限の犠牲を払ってでも、あくまで制圧を行うということだ。
人質をとって優位に立てるという理屈を認めず、どのようなことをしても、テロリストは殲滅する、という強気な姿勢が必要な国も数多くある。

敵・味方が混在する戦場で、航空支援が行うことは、出来るだけ敵の多いエリアを空爆し、それを繰り返して、敵を殲滅し、生き残った味方を救う。
事態の収拾を図るには、これが最短の道であり、そこには敵との交渉もなければ、人質全員を救うという甘さは無い。

先進国のヒューマニズムが、テロが日常化している戦場においては、如何に甘い理想かという証左でもある。

今回の事件に邦人が含まれていなかったら、日本の報道は、これほど繰り返しニュースを流し、訳知り顔の評論家が語っていただろうか?
答えはNoで、事件の発生と終結すら報道されたか怪しいものだ。
つまるところ、日本のマスメディアやヒューマニズムなど、そんなレベルの話である。

テロリストが襲撃してくるかもしれない国で、戦わないまでも逃げる算段ぐらいはしておくのが、私の常識だ。