武道

私は、小学生時代を剣術の世界で過ごした。
剣道とは似て非なるもので、一刀流の伝承者である先生の下で、基礎から教えていただいた。

もちろん、進んで求めたわけではなくて、父方の祖父や父が道場と付き合いが深く、共に免許皆伝であったので、完全に強制された形だ。
腹の底から嫌で仕方がなくて、何とか行かずに済む方法はないかと考えるのだが、結局は門に着いている。
夏の暑さ、寒稽古の厳しさ、異臭が漂う防具、徐々に重くなる振り棒、と苦悶の日々であった。

それが、ある頃から、急に心が軽くなった。
悪し(あし)と、後ろから太ももや肩を竹刀で打たれても、百文の斉唱も、道場の掃除さえも、どうということはなくなった。
体が出来上がってきたせいで、少々のことはこなせる様になったのもあるが、心が順応したのだ。
動きが悪い時は自分で分かるので、先生に打たれる前に修正したら、正に後ろで竹刀が上がっており、目を合わせて互いに笑みになったこともある。

離婚した後も、後ろ髪を引かれたので、小学校卒業までお世話になり、中学には剣道部がなかったので、柔道部で遊んだ。
部活とは遊びであり、どれだけ夢中になったとしても、部活が第一などとは思ったこともない。

父方との縁が切れたので、道場の先生に会うことは二度となかったが、私を構成する大事な部分を育てて頂いた恩人である。
道場であったからには、私は弟子入りしたわけで、その関係は部活のような遊びではない。
厳しさも半端ではなかったが、最近騒がれているような体罰は、6年間で受けた気がしない。
最初の頃は、通うこと自体が体罰のようなものだったが、積極的になってからは、もっと上手に使えるようになりたい、という思いから、先生の指導が回ってこないと、とても残念な気分になったものだ。
そこには、体罰ではなくて、上達のための試練としての叱咤激励があった。


柔道界が、準強姦事件や強化チーム15名の告発などで揺れているようだが、根本には指導する側の思い上がりがある。
自分が何様になったつもりか知らないが、教え子に手を上げたり、罵倒するなど、人を導く資格も、指導する力量もない。
師とは、弟子の目標であり、技術、人柄を慕われ、心さえも鍛えてくれる存在だ。

剣術も柔道も殺人技から発祥しているが、長い年月を掛けて、安全に競い合える競技へと変化した。
スポーツの理念とは、勝敗が全てではなく、お互いの切磋琢磨を通じて、人間性を高めるものだ、と私は思う。
優勝のために、メダルのために、競技者を恫喝し、暴力を加える体質というのは、根本から間違っている。
武道だから体罰もある、という思い込みは実に失礼だ。

昔なら、負ければ死ぬかもしれないからこそ真剣に学び、命懸けで鍛錬を行なったのだが、スポーツで命までは取られない。

単なる名誉のためなんぞに、大義名文を掲げて、暴力を振るう犯罪者に指導者たる資格などないのだ、とスポーツ界全体が認識を改めることを切に願う。